普通と‘‘違う‘‘感性の人の雑多記事

あなた、変だよね。とよく言われます。

才能と向上心の因果関係

おはようございます。

朝起きて記事を書くのが日課になりつつあります。

忙しい日は書けないと思いますが。

今日はタイトル通りの事しか書きません。才能と向上心についてです。

前回の記事は私という性格がゆえの少し変な悩みについて綴りました。

今回は私のような人間ではなくとも、当てはまる可能性が十分あるため多少面白みに欠けるかもしれません。むしろ共感を呼ぶから面白いのかな?そこは各々の感覚でしょう。私自身あまりブログを読まないのでその辺りはわかりません。

 

さて、本題へ入りましょうか。先程も述べた通り才能と向上心です。

私は前の記事でも書いた通り努力が嫌いです。もちろん、何をしていても基本上の方に位置しています。それは才能であり努力ではありません。ですが私も一応人間です。

上手くなれるのなら上手くなりたいと思っています。しかしある程度上の方に存在している以上、私より上の実力を持ち合わせた人間は才能と努力を兼ね備えています。それが私と私より上の人間の明確な差です。努力に限界はありませんが、才能には限度があります。初期ステータスってやつですかね。才能には伸びしろがありません。

それが私にとって結構辛い所です。自主的にやること、今回は一般でいう娯楽コンテンツに当たります。それらは好きなので努力、というより楽しむためにやっているため継続が私でも可能です。ですが勉学のように特別好きでもないのにやらざるを得ないようなものは継続が難しいです。この辺りは普通の方々も理解ができるのではないでしょうか。共感を呼ぶ部分に当たると思います。ですが私という人間が書く記事ですのでここからまた一味違ったものになります。

 

結論から述べます。私には向上心がありますが、向上心がありません。

これはどういう意味なのか。向上心の定義を見ていきましょう。

現在の状態に満足せず、よりすぐれたもの、より高いものを目ざして努力する心。

向上心はこのような意味を持っています。勘の良い人は気づくでしょう。

そう、努力する心です。

普通の方々は上手くなりたいと思ったら努力をします。至って普通です。私から見たらすごいことだと思いますが。

もちろん私にも上手くなりたいという心自体は存在します。ですがそのために努力する心というものは存在しません。楽をして何もせずに上手くなったらなんて虫のいい話はありませんが、それを常々願っております。

願っているだけで叶わないのが現実の非情な所。致し方なく努力をすることもあります。私は例え、娯楽であろうと努力することが嫌いです。楽しむためにやっているのに何故嫌いな努力をせねばならないのか。いわゆるガチ勢の思考がまるで理解できません。きっと彼らは目標を達成していくことに快楽を覚えているのかもしれません。

しかし、私には達成感という概念がまるで理解できません。人生18年間生きていてそのような感覚を覚えた事が一度もありません。達成感を糧に努力をする人間、とても不思議です。

 

 

また少し話が逸れました。つまり私が言いたいのは向上心をモチベーションに直結させる方法が知りたいのです。

何が原因なんですかね?とても不思議です。何に対しても無気力。現代の日本人らしいといえば解決してしまいそうですが。

昔は結構色んな物に熱中していました。すごく楽しかったし上手くやるためにはどうすればいいのか。ひたすら学校の授業時間を使って考えていた記憶があります。

今でも結構考えることはあります。どうすれば上手くいくのか。ですが行動に移すことが難しいです。衰えですかねぇ。って言うと皮肉になりますか。撤回しておきます。

ですが実際高校生になってからめっきり行動を起こす事が減りました。

全ての物事が面倒なのです。何も面白いと感じなくなってきている。かなり危機感を覚えています。

ここで一定の方は疑問に思うかもしれません。

「何もかも上手くできるなら楽しいと思うものじゃないの?」

この答えは人によって違うと思いますが大多数を代表してお答えします。

答えは「NO」です。上の人間というのはそれなりに頭で考えて実行に移しています。

それは私にとっても例外ではありません。私の言う才能の原点は無意識のうちに脳で考えるというものが起因しています。しかし脳を使うのは普通に疲れます。

何も考えずに遊んでいたりする方が楽しいのです。

上の人達は脳を使った心理戦を楽しむ傾向にあると思っています。将棋や囲碁をしている方々は何をしても上手くいきます。脳を使うのが得意な人たちですから。

逆に、一般の方々はコンテンツを純粋に楽しむ傾向にあります。私は両者共々、一つの在り方と思っているので批評等はいたしません。

ですが主観で考えている事を述べると後者の方が人生を楽しむ事ができているのかなと。端的に表現すると理性に従っているか本能に従っているか、です。

何も考えずに本能に従っている方が楽だし楽しいでしょう?

私は本能に従いたい人間ですが無意識で理性がストップをかけます。何も考えずに楽しみたいのに先に思考が出てくる。つまらないものです。

考えるのが面倒だけど無意識に考えることが出てくる、だから何もしたくない。

こういうループに陥っちゃったのかなぁと今文章を綴っていて腑に落ちました。

 

一昨日、私はこのような英文を習いました。

「For all his wealth, he didn't live a happy life.」

訳すと「彼は富を持っているに関わらず、幸福な人生ではなかった。」です。

今ならとてもしっくり来ます。私風に英文をアレンジしてみましょう。

「For all my talent, i live a boring life.」

訳は「才能を持っているのに関わらず私の人生は退屈だ。」です。

普通の人読んだら頭に来そうですね。ですがそう感じています。

こういう状態を改善するためにまた考えていこうかな、と。

考えたくはないですが考えないといけないので。

また嫌いな事が増えました。。。

 

と、今回は愚痴よりの備忘録的なものになってしまいましたがここまでです。

これ以上考えていると愚痴だらけでろくなものにならなさそうです。

今回は本当に向上心についてしか書くつもりなかったんですが。

文才というのもまた困ったものです。

明日は模試が朝から控えているので記事は書けないと思います。

内容が思いつくかもわかりませんし。

つまり次回は未定ってやつですね。

ブログ自体は結構暇つぶしになるので続けていくと思います。

それではよしなに。

完璧ではない自信家の欠点

記事を作成して一日が経過しました。

思ったより反響を頂いて困惑しています。ただ、たくさんの人に読んでいただけるということはまた自分という人間を理解してもらう第一歩としても良い傾向なのかなと。

 

中々こういう性格を受け入れる事ができる人間って少ないんですよ、人に好かれると昨日は書きました。実際その通りではあるのですが、嫌われやすい傾向にもあります。

比率で言うと8:2か9:1ぐらいです、10人居たら一人ぐらいは自分を好ましく思っていないと思います。才能で努力を上回る人間ですから当たり前といえば当たり前ですが。

そのことについては特に気にしていませんけどね。自分を妬むような人間はその程度、と思っています。

努力を微塵もしていない才能を追い抜けないわけがないのです。基本的には、ね。

妬む、という行動は上の人間を見ています。上を見るということは殊勝な心がけだとも思います。ですが負の感情はどうなんでしょうね。自分は人を妬む事があまりありません。妬んでも努力という行動があまりにも嫌いなので妬んで終わりです。普通の方はその感情で努力ができるのでしょうか?この点に関しては長年の疑問だったりします。

 

結局自分は才能で全てをどうにかしてきました。それ故なのか、それとも元々の性格なのか、先にも書いた通り本当に努力と言う言葉が嫌いです。「頑張って」という言葉があります。英語圏では「Good Luck」幸運を。という訳をします。その方が好きです。英語圏に生まれたかった。自分は「頑張って」と人に言われる事が嫌いです。ですが当の相手は自分を思ってその言葉を投げかけてきます。その善意を無碍にするわけにもいかないのでいつもモヤモヤします。それも悩みです。これもまた普通と‘‘違う‘‘感性というものでしょう。

 

ですが現在の私は大学受験生です。中学の頃のように塾へ通っているわけでもなく、学校で勉強をしているわけでもありません。そんな状況を客観的に見てみましょう。二週間の勉強で受かるわけがありません。そう、努力を強いられているのです。

そんな日々が最近かなり苦です。ろくに勉強していないのに焦燥感に煽られる、という矛盾した日々を送っています。努力の才能がなかったのは恨んでいます。

それは才能云々の話じゃないだろう、という意見もあると思いますが私はそうは思っていません。毎日コツコツ何かを継続することができる人、すごいと思います。生半可な気持ちじゃそのようなことはできません。才能です。私はその才能の持ち主をとても尊敬しています。

と、少々話がズレてきたので一旦リセットしましょう。文字を綴る、この際殴り書きと言った方が正確かもしれませんがその行動にも私は才能があります。

作文という行為が得意でした。いくらでも頭の中に書くことが浮かんできます。

そのせいか、タイピング入力速度に対して脳の出力速度が追いついていません。

タイピングも早い方ですが、脳には勝てません。お陰様で色々話が飛んでるな、と推敲しながら思っています。修正のしようがなくて困っていますが。それも時期に慣れるでしょう。

 

ではここから本題です。タイトルにも書いてある完璧ではない自信家の欠点とはいかがなものか。上にも多少書きました。簡潔にまとめると「才能故に嫌われることがある」「一般と違った感性を持ち合わせている」の二点です。まだいくらかあるのでそれを書いていきたいなと。

 

一つ目は「他人に求めるハードルが意識せずに高くなる」ということです。

最近自覚し始めました。他人と遊ぶ機会が増えたので。

実力の指標、というものがこの世界には存在します。それこそ以前書いた「ものさし」です。何度でも書きますが私は100cmのものさしだったら最初から80cmぐらいのところに存在します。継続したら90~98cmぐらいまでには届きます。(頂点は無理です)

ですが普通の人は大抵50cmからスタートです。当たり前でしょう。あとはその人の努力次第。ですが、継続しても上手くならない人だってたくさん居ます。自分の知り合いにもたくさんいます。彼らにとっての当たり前は50cmです。ですが、私の世界の当たり前は80cmなのです。その差は歴然。私は客観的に物事を見れます。なのでその差は理解していますし、極力求めないようにもしています。ですが18年間、80cmの当たり前で生活してきたのです。無意識のうちにハードルが上がります。自分の当たり前についてこれない人に憤りを覚えることが多々あります。これを書くのは三度目ですが天才と普通の境界に生きているのでもちろん理解はしているのです。理解しているからこそ憤りをを覚える自分自身に対して憤りを覚えてしまう。そんな葛藤に悩まされている日々です。詰まる所イラつくのです。周囲に良い影響を与えるわけがありません。

今すぐにでもやめないと。とは思うものの性格です。どうしようもありません。

ここ数年で抱え始めた悩みですね。私はいわゆる「エンジョイ勢」というヤツです。

実力だけでは俗にいう「ガチ勢」にも劣りませんし、むしろ勝てます。運動もゲームも。ですがやはりエンジョイ勢、実力が同じような人間を拾い集めて本気でやるよりも仲が良い友人とゆるく遊ぶ方が好きなのです。だからそこ仲の良い友人高みを求めてしまう自分が恨めしい。解決策あれば募集しています。ここに関しては私の脳みそを用いても解決できませんでした。

 

二つ目は「自信過剰の時がある」です。

私の人生に置けるポリシーは「客観的」です。故に自信過剰というのは稀に困る。

客観的に見ているつもりではあるものの、自信家というものは自信があるだけで全てが上手くいくわけではありません。極稀に失敗もします。特別恥ずかしいという感情はありません。余談ですがこの性格、恥を知るということが基本ありません、そこも良い所だと思います。

本題に戻りますが失敗した時に恥ずかしくなるわけではないのです。メンタルに来ます。自信家の自分は完璧主義の傾向にあります。だから基本失敗は許せない。悲しい、落ち込む、などの感情は湧き上がってきません、18年かけて培ってきた自信です、一度や二度の失敗でそう簡単に折れるものはありません。むしろキレるのです。自分自身に。「どうしてこんなに簡単な事もできないんだ?」と。

落ち込むよりも質が悪い。メンタルコントロール自体はできますが、プロの人間ではないので次の行動には支障を来たします。どうすればいいんでしょうね、メンタルコントロール。中々難しいものだと思います。それもまた人生の課題でしょう。

上手くできれば色々事が有利に進みそうなので是非とも会得したいです。

 

今回は完璧ではない自信家の欠点、というところに焦点を合わせて私の経験談を基にお話をしました。

私のような性格の人のみが経験するであろう独特な悩みだったと思います。

結局皆、振り出しに戻れば人間なのです。悩みを抱えています。ただ普通の人と私の違いはその悩みに対する向き合い方だと思います。深刻な悩みではあるものの、特別気にしていません。粗雑な人、と解釈されてもおかしくはありませんがそうではありません。これらの問題を重点に置きつつも、永劫に悩み続けても無駄ということを理解しているのです。私が数年考えて解決していないのです。つまり今後も向き合っていくような悩みということがわかりきっているのです。ではどうすればいいのか、解決をせずとも受け流す、その行動に徹することにしています。その結果が気にしない、です。この考えも私の良いところだと思っています。

この記事を読んでいるあなたも、自分を客観的に見て、良いところを自分で褒めてあげてください。次第に自信に繋がると思います。そうなればあとは楽です。適当に自信がなんとかしてくれます。このような経験ありませんか?「なんか知らないけどめっちゃ自信あるわ~失敗する気しねェ~」みたいなこと。このような感覚をあなたが抱いた時、失敗することはほぼありません。私は大体この感覚で生きています。だから成功するのです。ただ、先のような自信過剰にだけはお気をつけて。私も失敗はします。

完璧な人間はこの世に存在しないのです。

長くなりましたが一日自分を鑑みた結果です。

こうして文にしてみると自分の事ながら中々興味深いな、と。

次回は未定です。ふと生きていて感じた事があればまた綴りますが、今後は比較的短い記事が多くなると思います。結構色々書いてしまったのでね。。。

スタートダッシュをしすぎたような気もしますが、マラソンでも最初に飛ばした方が良い。と科学的根拠があります。同じかどうかはわかりませんが、きっと同じでしょう。これもまた変な自信です。

それでは、次回もお楽しみに。

普通とは‘‘違う‘‘感性や考え方

普通とは違う理由

普通とは違う、と見出しに書くレベルです。それなりに自負がありますし、他人にもそう言われます。

ですが一つ断っておくこととして、娯楽や芸術に対する感性は一般衆と大差ありません。私は一人でオーケストラに行ったり、一人で海に行くような人間ですがプロの方々の音楽を聴けば感動しますし、海を見れば綺麗だなとも思います。そういうことではないのです。人間と人間の会話や感情の中で私の感性は他と違ったものを発揮します。

 

前置きはここまでです。では具体的にどのようなものなのか。原点は前の記事を読んでいただければ話自体は掴みやすいと思いますが、始めたばかりの初心者記事を読む物好きな方もそうそういないと思うので前回の記事を読んでいないこと前提で綴ります。

私には人生を生きる才能があります。勉学、運動といったものの才能があります。

人に好かれやすいという事も自負しています。原点はそこです。

つまり何が言いたいかと言うと失敗を知りません。

さて、基本大多数に喧嘩を売るような発言ですが本当にそのとおりです。

日本人の性格は内気などと世界から見ても評されていますが、私はそうではありません。失敗を知らないが故に自信家なのです。もちろん、この世には天才が存在します。コンテンツの頂点に君臨する方々です。一つのモノを極めし人々。私はそういう人間ではありません。

あらゆるコンテンツを一般の人間よりある程度、この際かなりと言っても差し支えはないでしょう。上手くこなせます。

ですが例外もあります。全てに秀でているわけではありません。自信家ですが完璧ではないのです。数学とかね。。。勉学じゃん!!!!!って言われますがそこは妥協してください、その他はまぁまぁ優秀です。一度数学含めても全国トップを取ったこともあります。それに関してはたまたまですが。

と、このままだとただの自慢話になってしまうので切り上げます。自慢をしたいのではなく感性のゆえんを説明したいだけです。

 

とりあえずは感性の違いをご理解いただけたかと思います。

具体例にいってみたいと思います。

私は自虐というものをしません。もちろん自信があるからです。

かと言って自虐する人に憤りを覚えるわけでもありません、前回の記事の一部を引用する形にはなりますが、天才と普通の境界に生きているのでその気持ちが理解できるのです。

ですが自虐をする人々にある程度共通していることは自分を下に見すぎているという点です。よく言いますよね、自分をそこまで卑下する必要はない、と。

本当にその通りだと思います。自分のようになれとは言いません。

ただもっと自分に自信は持つべきです。ただ自虐する人は口を揃えて言い返してきます。「自分に自信が持てたらこんなことは言っていない」と。

ぐうの音もでません。正論です。ド正論です。

でも自分にはド正論に対して返す言葉があります。もっと自分を客観的に見ろ。です。

 私は基本的に客観的に物事を見ます。

自分に自信がない方は自分と他人を比べる癖がある。その上でさらに自分より上しか見ない。だから劣等感を覚えて自虐に走る。ものさしを知らないのです。自分を勝手に0cmに置いて50cmの人間しか見ない。でも他人から見ると案外25cmぐらいのところにいる。そういうものです。この世界ってのは。綺麗事を並べましたがようはもっと下を見ろってことです。下が居なかったらその自虐は自虐でなく正論になるのでそんな事を言ってる暇があったら行動してください。

ついでに上の記事を読み返してみてください、「始めたばかりの初心者記事」や「全国トップを取った際にたまたま」と表現しています。一見自虐に見えなくもないですが私が客観的に見た結果です。間違ったことは何一つありません。とりあえず落ち着いて客観的に物事見れば良いのです。

ちょっと説教じみたものになってきたのでこの話はここでお開きです。

この記事を見ている方が少しでも自分に自信が持てればなと思います。

 

少し趣旨がズレましたが具体例が改めて考えると他に思いつかないので数日意識して生活してみます。また何か発見したら適当に綴りますね。

では。

あなたが体験したことないであろう人生

人生とは

人生、そろそろ18年目になります。このブログ読む人は多分大抵の方が年上でしょう。

ですがこんな学生時代を送った人も居ないと思うので波乱万丈奇想天外奇天烈物語としてお楽しみください。

生後~12歳

多分比較的どこにでもいる普通の子でした。

裕福でもなく貧乏でもない。

田舎でもないけど都会でもない。そんな街でアパートを借りて暮らしていました。

その頃から他の人と違ったことはきっと才能です。年齢が年齢なので特に気にしていませんでしたが、何に置いてもに平均以下ということがありませんでした。

一位になることも少なかったですけどね、いわゆる器用貧乏ってやつでしょう。

水泳、そろばん、空手、塾、テニス、サッカー、色んなものを習っていたりもしました。今考えると結構多忙だったんだなぁと。

13歳~15歳

中学時代ですね、サッカーをしていたこともありサッカー部へ入部しました。

県大会とかにも出場するレベルで割といいチームだったと思います。

塾も継続していました、特別受験に力を入れるつもりはありませんでしたが親に流されるまま、といったところです。成績も学年10~20位ぐらいをうろうろしていました。その他の習い事はやめました。自分で言いますが結構全部上手かったです。好きではなかったですが。

と、表のお話はここまでになります。一つの転換点となります。

泥沼へ・・・

自分は昔からゲームが好きでした。幼稚園の頃からポケモンをしたり小学生の頃は外で遊びつつ太鼓の達人をしたり。それまでは良かったんです。至って‘‘普通‘‘でした。

ですがそこで自分は出会ってしまいました。結果的に見れば自分は後悔してません。

「何に出会ったか」って?「後悔って何?」って?

何ら変哲のないパソコンです、Macbookです。

世間一般でいうゲームというのはコンシューマー機(SwitchやPS4)、今は時代が流れてスマホのソシャゲですね。ですがPCでもゲームはできます。

自分は何を思ったのかPCでゲームをはじめました。ハイテクだったんです、自分。

 

と、少し前置きが長くなりました。別にゲームすること自体は問題ないのです。ですが昔から親にゲームの時間制限などを設けられていました。一般的?なのかはわかりませんが模範的な親なので当時は不満たらたらでしたがそのルール自体今では理解もできます。だがしかし中学生、自分の反抗期は早めでした。さらにPCゲームがすごく面白いのです。やめろって言われなければ冗談抜きで24時間やっていたと思います。

その二つが重なってすごく喧嘩しました。それでも中学の頃はしっかりタスクもこなして文武両道の鏡のような人間をまだしていました。そう、まだです。

受験期~16歳

受験生です。週4の塾、日曜は13時間、なんなら泊まり。今考えると本当に恐ろしい。

特別志があるわけでもなく高校など微塵も興味がありませんでした。どこでも良かったのです。どこでも良いのに選べってのも中々酷な事を大人は言ってきます。

「どこでもいい」と答えるとじゃああなたの成績で狙えそうな所を、と偏差値63ぐらいの高校を出してきました。正直もうちょい上も狙えましたが楽をしました。

妬まれそうな話ですが週4回の塾以外に勉強はしてません。受験の二週間前から家でも勉強を始めました。普通に受かりました。才能です。自覚があります。自分には人生を生きる才能がある事の。普通の人はきっとこの文を見ると憤りを覚えると思います。

完全な天才ではないので自分は普通と天才の境界線に生きてます。なのでその感覚が多少理解できます。この文も正直イラっと来るものがありそうですが、この後自分がもれなく殺される爽快ストーリーが待っているのでブラウザバックはお控えください。

16歳夏~現在(17歳末期)

晴れて高校生です。中学の頃、自分は世間で言う陽キャポジに居ました。

何人かに告られたり、彼女も居ました。サッカー部7番っていう肩書もありました。

そのせいか、何を思ったのか高校ではおしとやかに静かに生活しようと思ったのです。

人生の歯車が狂い始めた瞬間でした。自己紹介では何も話しませんでした。

部活やってない趣味特にない、と。

自己紹介でそんなこと言われた人間に関わりたいと思うヤツなんていません。

当然友達などいませんでした。中学の頃、同学年全員が友達、クラスメイトも当然。

つまりクラスメイト=友達。という常識を持っていたのです。一瞬で打ち砕かれました。クラスメイトはクラスメイト、友達は友達。違ったんですね、あれって。

昼を共に食べる人が居ないのでは当然、一言も学校で口を聞かずに帰ることが次第に当たり前になっていきました。

その生活がどれだけ苦痛か、想像してみてください。

職場でも事務やり取りすら聞かされない。存在しているだけ、人というより置物として見られている感覚。中々に辛かったです。次第に学校にも通わなくなりました。

しかし留年するわけにもいかず午後だけなんとか登校して留年だけ回避、というかなりイレギュラーな人間でした。目立ちたくはないがそうせざるを得ない。これまた結構キツかったです。自業自得ですけどね。

なんとか留年を回避して二年になりました。なんとか自己紹介で挽回しようとしました。無理でした。いくらクラス替えをしても当然一年間その学校で生活していたのです。既にグループが存在しています。何も変わりませんでした。恥を晒して終わり。

そしてまた無言の生活が始まりました。一年耐えきったのも中々だと思いますが二年目はもう心も体もボロボロでした。二年に入って5月のGW、異常な腹痛に見舞われ救急車に運ばれました。原因は日々のストレス。精神科にも通わされました。嫌でした。

結局夏、自分は早生まれなので16歳でした。学校をやめました。偏差値63を捨てて通信の学校に転学しました。生活は楽でした。ニートと変わりありません。ただ、その生活を続けている今でも人と話したり関わることもありません。そこで出てくるのが伏線として張っていたPCです。今の時代、ネットにはいろんな人が居ます。

自分は今そこに縋って生活しています。それこそ一日の全てをそこへ・・・

このブログもそのネットの一貫です。後悔はしていません。楽しいので。

普通とは‘‘違う‘‘感性として

と、とりあえず自分の人生をざっと書きました。

ですがきっとあなたが求めていたものはこういうことではないと思います。

ですが、こんな人生を歩む人間もそう居ないだろうと思いとりあえず綴っておきました。

ここから本題、というとまたとてもブログが長くなるので次に書きます。

次回は普通とは違う人の思考回路と実生活です。きっと為になりますよ。